勧修寺について
昌泰 3 年(900年)醍醐天皇(885 ~ 930年)が母后である藤原胤子(不詳 ~ 896年)の菩提を弔うため、外祖父である宮道弥益の邸を仏寺とされたことに始まります。
延喜 3 年(903年)に醍醐天皇が母である胤子の菩提を弔うため、刺繍曼荼羅と筆の法華経を供養され、同 5 年(905年)には太政官府を下し、この寺を『勅願寺』とされました。開山は東大寺の傑僧 承俊律師でございます。それ以降、幾多の仏閣堂塔が建立され、かつては全国18か所に広大な寺領を有しておりました。
しかし天喜年間(1053 ~ 58年)に失火により焼失、また文明 2 年(1470年)には応仁の乱の兵火にかかり堂宇を焼失しました。
天正17年(1589年)の豊臣秀吉(1537 ~ 1598年)の太閤検地においては、寺領が約四分の一に減石され、伏見城築営に際しては、伏見から関東へ通じる街道(現・大岩街道)を造るために寺領が縮小されるなど、時運は衰退していきます。
ですが、天和 2 年(1682年)に霊元天皇(1654 ~ 1732年)の皇子である済深法親王(1671 ~ 1701年)が第29代 長吏に就任されると、御所より明正天皇、霊元天皇の旧殿を下賜されるなどして、旧観に復することができました。現在の主なる建物はその時のものです。また済深法親王が東大寺大仏殿再建に功されたとして、寺領が増石されました。
正徳 3 年(1713年)に伏見宮邦永親王(1676 ~ 1726年)の皇子である尊孝法親王(1702 ~ 48年) が第30代 長吏に就任されると、尊孝法親王の叔母である真宮理子(1691 ~ 1710年)が紀州の徳川吉宗公(1684 ~ 1751年)の正室であったご縁で、紀伊国の約百ヶ寺が勧修寺の末寺とされました。
後伏見天皇(1288 ~ 1336年)の皇子である寛胤法親王(1309 ~ 76年)が第15代 長吏に就任されて以降、第32代 済範法親王(1816 ~ 98年)に至るまで、代々法親王が住院となり「勧修寺宮門跡」を称されました。
当寺の門前は、寺院というよりも宮殿のような壮美さがあるとよくいわれますが、荘重な築塀が山門まで続いていることや門跡寺院独特の雰囲気のためではないかと思われます。江戸時代中期に編纂された『拾遺都名所図会』を見ると、この築塀は当寺院の周囲を巡っていたようです。


秘められたロマン
醍醐天皇の外祖父である宮道弥益の邸が門跡寺院勧修寺となるには、次のような秘められたロマンがありました。『今昔物語集』巻22第 7「高藤内大臣語」に、次のようなお話として残されています。
平安時代のはじめ頃、閑院大臣と称された藤原冬嗣(775 ~ 826年)の子である良門(813 ~ 867年)に、高藤(838 ~ 900年)という子供がおりました。高藤は幼いころから鷹狩を好み、十五、六歳の秋、南山階(現・京都市山科区)に鷹狩に出かけました。天安元年(857年)九月というと、今でこそ住宅地となっているこの地域も、平安の貴族方が狩りを楽しむ千古の大樹海でした。
この日、午後四時頃、来栖野のあたりで雷雨にあい、一行は雨宿りの場所をさがして散り散りになってしまいました。高藤は供一人を連れて馬を走らせ、西山の袂にあった人家に駆けこみました。その家は檜垣をめぐらせ、小さな唐門があり、 板葺の寝殿の端に三間ばかりの小廊がありました。高藤はその縁に腰かけ、暮れゆく雨空をながめつつ雨宿りをしていました。そこへ縹色の狩衣に袴姿の家の主があらわれましたので「鷹狩の最中、このような雷雨に見舞われ、ただ馬の駆けるに任せていましたら、こちらの家を目にしましたので、雨宿りをさせていただいた次第です」と答えました。その家の主は宇治郡の大領(郡司)を勤めている宮道弥益で、後にこの家が現在の勧修寺の礎となります。

さて、家の主である弥益は、高藤の供の者に「あのお方はどなたか」と問いましたところ、なんと藤原氏の御曹司と聞き大いに驚いたのです。この突然の貴人の来訪に驚いた弥益は、早速に高藤を家の中に招き入れ「このようなむさくるしい所ですが、雨がやむまでごゆっくりして下さい。濡れた装束も干しましょう」と部屋をしつらえ歓待しました。
しばらくすると奥の遣戸が開き、蘇芳色の衣に袴をつけた、十三、四歳の娘 列子(不詳 ~ 907年)が扇で顔を隠すようにして、片手に高杯を捧げて入ってきました。娘はこの後も折敷に鮑や鳥肉などの料理を運んできました。娘のなんともいえぬ美しさとなよやかさに、高藤はすっかり魅入られてしまいました。そうこうするうちに夜は更け、雨もやまず、弥益の言うままに一夜の宿をここでとりました。その夜、娘との間に深い契りが結ばれました。

次の朝、雨もやみましたので、高藤は形見として太刀を娘に渡し、心を残しながらその家を後にしました。娘の家を出て、ものの四、五町も馬ですすむと、あちらこちらから供の者が駆けつけ、高藤の無事をよろこび合い、京の家に帰りました。
家では、父の良門が心配のあまり夜も寝られず、空が白みはじめると、人を動員して捜索にあたらせていました。そこへの帰宅。はじめは高藤の無事をよろこびましたが「今よりは、かかる行い止むべし」と鷹狩を禁じました。父に鷹狩を禁じられた高藤は、南山階へ行くこともできず、その上、娘の家の場所を知っている供の者は暇をとって国へ帰っており、娘の許に使いの者を出すこともできず、気がかりなままに六年の歳月が流れました。この間、父の良門は若くして世を去りました。
こうしたある日、かつて娘の家に同行した使いの者が国から戻ってきました。早速にその供の者を呼んで「かつて鷹狩をした際に雨宿りをした家を覚えているか」と問いますと「覚えております」と答えましたので「今日、そこへ行こうと思う。鷹狩の格好をして行こう」と、阿弥陀峰を越えて娘の家をたずねました。
二月の中旬でしたので、庭先の梅の花が所々に散り、鶯が鳴いていました。高藤の突然の訪問に弥益があわてて出てきました。高藤が「娘はおいでか」と問うと「候う」と答えましたので、よろこんで部屋の奥に目を移しますと、几帳のそばに娘が隠れ気味に控えていました。よく見るとその傍らに、五、六歳の女の子がいました。「誰の子か」と聞きますと、二人の間にできた子 胤子であることを知らされました。高藤はたいそうお喜びになり、列子と胤子を正式の妻子として、京へ迎えられました。後に胤子は宇多天皇(867 ~ 931年)の女御となり、醍醐天皇のご生母になられました。『今昔物語集』は「其ノ弥益ガ家ヲバ寺ニ成シテ、今ノ勧修寺此也」と結んでいます。

後に、高藤と列子の間には男子二人(定国・定方)が生まれました。やがて高藤は大納言となり、高藤の長子である定国(866 ~ 906年)は大納言右大将に、次子である定方(873 ~ 932年)は三條右大臣になりました。また列子の父である弥益も四位修理大夫に叙せられました。そして醍醐天皇が即位されると、高藤は内大臣に昇階し、一族は栄えに栄えました。醍醐天皇は文字通りの名君で、天下泰平を極め、人びとは「延喜の御代」と称して祝福しました。
醍醐天皇と弘法大師
醍醐天皇は延喜21年(921年)10月27日に、真言宗の宗祖である空海上人に「弘法大師」の諡をされました。大師号を賜った高僧は多くおられますが「大師といえば弘法さま」を指すほど、広く万民から崇敬され、世人に知られています。

また、お大師さまが入定された旧暦の3月21日は、正当の御忌日(命日)で、正御影供と申します。これを永代の儀式として「御影供(法要)」を修するよう勅命を下されたのも醍醐天皇です。一千有余年を経た今日でも、総本山東寺においてはもとより、真言宗の寺々において正御影供の法会が厳修されております。このことは、醍醐天皇のお大師さまに対する厚い信仰の念にほかなりません。
「御縁」
仏教では「御縁」ということを大切にしています。藤原高藤の話にしても、たまたま高藤が鷹狩で山科へ来られ、暴風に遭い、そして駆け込んだのが宮道弥益の家で、それによって真言の道場「勧修寺」が建立されました。そして弥益は、地方の郡の長官であったのが一躍にして天皇の一族となり、子々孫々家門が繁栄しました。
この物語は、もとをただせば高藤と列子がお互いに約束を守ったことによって生じたことです。「約束を守る」ということがいかに大切であるか、これが人の道の根源であることを教えてくれた物語でもあります。
今日、世間で破格の出世をすることを「タマの輿に乗る」といいますが、この言葉は藤原高藤の妻となった宮道列子(タマコ)から出たものともいわれています。大変に貴く、めでたく美しい、平安のロマンスの物語です。
また、『源氏物語』を書いた紫式部は藤原為時の娘です。その為時の母は、先述の藤原高藤の孫にあたります。つまり紫式部は、勧修寺ゆかりの血筋を引いておりますので「源氏物語の舞台も当寺院に深くかかわっているのでは」ということから『源氏物語』の史蹟めぐりで訪れる方々もおられます。
真言宗山階派 大本山